『学佛大悲心(がくぶつだいひしん)』

学佛大悲心(がくぶつだいひしん)

「少しでも、人のいたみに気付くことのできる人になろう」

 仏教の話を聞くってどういうことかと言えば、それは「佛(仏)の大悲心を学ぶ」ことです。

 大悲心とは阿弥陀さま(佛)の「大いなる慈悲のお心」のこと。

慈とはインドの言葉で「マイトリー」。人の幸せを、一緒になって喜んでいくことのできる〝こころの〟はたらき。

悲とは「カルナ」。人のいたみに気付き、そのいたみを同じように感受していくことのできる〝こころの〟はたらき。

大いなるとは、一切をもらすことなく、あらゆるものを包み込むはたらきをあらわしています。

 私たちにだって慈悲の心は起こります。親しい人の喜ぶ顔はこちらも嬉しいし、辛そうな様子は心がいたみます。そんな時は、「何とかしてあげたい」と、そのいたみを少しでも和らげようとする“こころ”がはたらきます。

 しかしながら、私のそれはあくまでも限定的です。例えば、嫌いな人に対してはむしろその逆の気持ちが起こるといってもいいでしょう。(どうでもいい人に対しては、そもそも何も気持ちも起こりません)。

 そして残念なことに、たとえ家族や友人であったとしても、私の心にゆとりがない時には、そうすることが出来ないのが私であります。ゆとりがないというのは、自分の方ばかり見ている状況のことです。「今はそれどころじゃない」「私の方が・・・」となった時点で、素直に喜べない・素直にいたみに共感できない。誠に厳しいことです。

 阿弥陀さまの「大いなる」慈悲のお心を知らされることによって、娑婆(耐え忍んでいかねばならない世界)を もがきながら生きる私のありったけを支えて下さる阿弥陀さまのあたたかさを感じると共に、こうした自分本位からは離れることのできない私本来の姿が浮かび上がってきます。

 すると、そのご縁に応じて「また自分のことだけ考えておったな」と気付かされます。

その気付きが、だんだんと私を育ててくださいます。

 人の喜びを妬むのではなくて、一緒になって感じることができたらどれだけ幸せなことか。

そして、

「少しでも、人のいたみに気付くことのできる人間になろう」と努めていく。こうした“こころ”が育まれていく。

 つまり「学佛大悲心」とは、自分本位な私が、阿弥陀さまの大悲のお心を学(真似(まね))ぶということだったのであります。

いつかではなくて、今ここで。

仏教の話を聞く=教えに出遇うその醍醐味は、今が旬。今も旬であります。

-2021西法寺除夜の鐘 記念番号札-